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年頭之辞

2024年、令和6年。新しい年を無事に迎えることができました。全国の会場に集われた会友の皆さま、明けましておめでとうございます。

新型コロナウイルス感染症が、5類感染症へと移行して初めての元朝であります。日本国内で初めてコロナ感染症が確認された2020年の年頭、俳人・桂信子かつらのぶこさんの句をご紹介しました。

大いなる 闇うごきだす 去年今年こぞことし

覚えておられるでしょうか。中七の「闇うごきだす」の言葉には、人間の力を超えた大いなるもののエネルギーが表現されている。力強くて決して悪いイメージではないのですが、なんとその年にコロナパンデミックが始まってしまいました。俳句として素晴らしい作品だと今も思っています。「大いなる 闇うごきだす」の言葉こそこの句の魅力です。

ところが、ご紹介した句が、まるでパンデミックを招き寄せたかのような展開になってしまった。「会長は予言者だ」などとも言われました。もちろんたまたまそうなったにすぎません。単なる偶然です。

言葉には不思議な力があって、一度、書いたり口にしたりした言葉は、その言葉が秘めた不可解な力が働いて、言葉の意味することを招き寄せる。そのような、いわゆる「言霊」があるといわれます。その力なのかと思われたようです。

もしそうであるならば、今年は、元気で決意に満ち溢れた句をご紹介して善きことを招き寄せましょう。

一歩また いつぽをしかと 大旦おおあした

「大旦」は元朝、元日の朝のこと。まさに年の始まりにふさわしい句ではありませんか。作者は群馬県の名峰、妙義山の風光を愛した俳人・雨宮抱星あめみやほうせいさん。

何事かを成し遂げるにもまず第一歩を踏み出さなければなりません。最初の一歩を踏み出すと、自然に次の一歩が出る。こうして次の一歩、またその次の一歩と、新しい年の目標に向かって歩みを進めることができるのです。第一歩が肝心です。「卵を割らずに、オムレツを作ることはできない」というフランスのことわざがあります。当然必要とされる行為を起こさないかぎりは期待する結果は得られないということです。目標に向かってまず第一歩を踏み出す、この元朝式をそのきっかけとしていただきたいのです。

昨年の元朝式では、実践は善く生きる意志であると申し上げました。また、人生を価値あるものにするのも実践である、と。このように実践の大切さを申し上げ、実践こそが生きる力を育てる、とお話しいたしました。今年は別のテーマを、と考えていたのですが、わが会の趨勢すうせいを見るにつけ、わが会に生きる力となるのは、どう考えても実践以外にはあり得ない。そこで再び実践をテーマとしてみたいと考え直したのです。

皆さんは、「一年の計は元旦にあり」と、達成したい実践目標を定めて歩みを開始されるでしょう。目標を掲げた以上、それは是が非でも達成したい。誰もがそう思います。実は、そのためには実践を楽しむことが近道です。楽しむこと、好きになること。それこそが実践成就の秘訣である。そんなお話です。

 

さて、子どもが何かして失敗すると、親は、「よく考えてから行動しなさい」と、たしなめます。よく考えて、それから行動に移せ。文句のつけようのない教えです。

一方、私は、「つべこべ言わずにさっさと行動しろ。後から考えればいいだろう」と言われて育てられました。考えるより先に実践せよ、と何よりもまず行動することを奨励されたのです。

考えることが先か、それとも行動が先なのか。一つの疑問でもありました。もちろん二つは車の両輪のようにお互いに支え合っています。しかし、2つ同時に行うことはできません。

最近の脳科学では、驚くべきことに、行動した後に意識が形成され、そこから考え始めるというのが通説だそうです。

実は、人間がある出来事を意識するまでには最低でも0.5秒の時間がかかるそうです。1秒の半分、わずかな時間と思われるかもしれませんが、それでは時間がかかりすぎる。水泳や陸上競技など、タイムを競う競技では「・(コンマ)〇〇秒」で順位に大きな差が出ますから、0.5秒では明らかに遅いのです。

例えば、時速40キロで走っている車の5メートル先に子どもが飛び出してきた。ドライバーが気づき、急ブレーキをかけようと判断するまでに0.5秒かかったとすれば、時速40キロの車はすでに5メートル以上走行しています。つまり事故は避けられない。意識するのに0.5秒かかるのでは遅すぎるのです。

でも実際には、事故を回避しているケースがほとんどです。実は、意識するよりも先に脳と体が反応してブレーキを踏み込んでいるからです。私たちが考えるより先に体が反応する。考えるより先に行動した結果、事故を未然に防ぐことができるのです。

ところがドライバーは、必ずといっていいほど「子どもが飛び出してきたので、とっさの判断で急ブレーキをかけました。間に合ってよかった」と口にいたします。つまり、危険を意識したから自分はブレーキを踏んだのだというのです。脳と体が反応して先にブレーキをかけたのに、あくまでも自分の判断で行動したと主張するのです。

人間は常に「私」「自分」という存在があり、自分の考えで判断し、自分の意思で行動しているのだと信じたいのです。脳が自分を差し置いて先に行動するなんて許せるはずがない。もしそれが事実なら、私とは、自分とは何者なのか、行動の真の主体は誰なのか、と自分という存在が揺らいでしまうからです。だから運転した人は、自分の考えで行動したと主張するのです。

しかしながら、最近の脳科学研究が明らかにした事実は、先に行動があり、後から考え始めるという現実です。「私」「自分」という存在は、行動した後に、行動の意味やその結果がつくりだした状況などを整理してまとめる作業をするのだというのです。

意外と思われるかもしれませんが、これは当然と言えば当然のことなのです。

登山をしている時、今、どの辺を歩いているのか、実はよくわかっておりません。疲れたからひと休みと、腰かけて休んでいる時に地図を広げて初めて山のどの辺りにいるのか確認できる。歩いている最中は、歩くことに夢中で全体を俯瞰ふかんできないのです。

登山にかぎらず、皆さんの仕事や家事など日常生活の何気ないひとコマを振り返ってみても、まず行動する、その後に考えて全体が理解できる。それはその通りだと、うなずける経験がたくさんあるはずです。

このような事実を、私は、『さまよえる自己』という精神病理学者の内海健うつみたけしさんの著書で知りました。内海さんによると、私たち人間はまず行動を起こし、その後にやや遅れて意識が生まれ、そこから考え始めるというのです。行動を起こして、新しい現実に直面した時に、その状況をいかに理解するべきか、そこにどのような意味があるのかなどを後から考え、整理してまとめる。考えることによって自分という主体が形成されるというのです。

言ってみれば、実践が自分をつくり、自分を自分として自覚するということでしょう。実践によって「私」「自分」ができるということです。

やや理屈っぽくなってしまいましたが、何よりも行動する、まずは実践することの大切さを申し上げたいのです。実践なしには何も始まらない。実践することで考えが深まり、実践することで自分が形成される。実践がいかに大切かということを訴えかけたいのです。

ところが、「実践が大切」と頭ではわかっていても、いざ始めようと一歩踏み出す直前になると、「先が見通せなければ、怖くて行動に踏みきれない」と不安に駆られてしまう。多くの方の実情であります。

それはそうでしょう。行動した結果、何が起こるかわからないのです。実践に躊躇ちゅうちょする気持ちはわからないでもありません。

しかし、将来何が起こるかは、いくら考えても誰にもわからないのです。ですから、何が起こるかわからないから怖いのではなく、知りようのない将来をあれこれ考え、思いわずらうから逆に、怖さが増してくるといえるのではないでしょうか。たしかに考えることは大切です、でもある程度のところで結果を恐れず思い切って一歩踏み出さなければ、恐怖や不安感が消え去ることはないのです。

なかには、「その気になればいつでも実行できる。今はその時じゃないだけ」などとうそぶく方もおられます。実践力はあるけれど、実践しないのは、機が熟していないからだというのです。

「ここがロドスだ、跳んでみろ」という言葉があります。ある男が、ロドス島のスポーツ大会で周囲が驚く大ジャンプをして優勝したと自慢しました。それを聞いた周りの人々は「ここがロドス島だと思って今すぐにこの場で跳んでみろ」とはやし立てる。口では何とでも言えます。できるか否かは実行してみなければわからないのです。

先ほど申し上げたように行動してこそ自分がわかる。自分の力量もわかるのです。実行してみたら思っていた以上に力があった、逆に力不足だったということがわかります。わかれば、次に対処法を考える。実力があるなら恐れずに前に進む、力不足なら力を蓄えるためにどうすればいいのかを考える。しつこいようですが、行動するから、実践するから自分を知ることができるのです。だから申し上げたい。

「ここがロドスだ、跳んでみろ」。勇気を出してジャンプ! 実践に移していただきたいのです。

ということで何とかジャンプした。皆さんは目標達成に向けて実践に集中しているといたしましょう。

実践し始めた以上、立てた目標は必ず達成すると心して日々頑張る。なかにはまなじりを決し、ねじり鉢巻きに不退転の覚悟で実践に挑む方もいらっしゃる。笑顔を見せず、ただストイックにひたすら実践に励む。たしかに立派な姿勢です。

しかし、あまりにも頑なな実践では、成果を上げにくい。私はそう思っております。車のハンドルには必ず「あそび」があるように、実践にも「あそび」がなければなりません。そもそも思うようにいかないことが多いのが実践です。車はハンドルに「あそび」があるから正常に走れるのと同じように、実践も「あそび」つまり「ゆとりや余裕」があって初めて実のある成果へとつながるのです。

気持ちにゆとりのない実践から独創性や創造性は生まれてまいりません。モラルややりがいの低下を招き、すぐに行き詰まってしまうでしょう。仮に行き詰まっても、実践のパフォーマンスが落ちているのですから、意外に復元力がない。立ち直りにくいのです。

気持ちにゆとりをもって、ライト感覚で楽しく時にはユーモアをもって、しかし真面目に取り組んだ人のほうが、実践の成果は確実に上がるものなのです。

昨年、107年ぶりに夏の甲子園を制した慶應義塾高校は、グラウンド上での強さとともに高校野球の慣習にとらわれない価値観を体現してくれました。慶應野球の伝統を集約するキャッチフレーズは「エンジョイ・ベースボール」、スポーツは明るいもの、楽しいものという、古い「野球道」の対極にある言葉でした。高校野球といえば、選手は全員丸刈り、監督の指示は絶対、その指示を忠実に守ってプレイする。何よりも勝利を優先し、勝つためならエースピッチャーは毎試合登板しなければならない。延長戦でも決着がつかなければ、翌日の試合も投げさせられる。ピッチャーはたまったものではありません。それでも試合に勝てば、マスコミは「青春の輝き」などと汗と涙の色濃い感動物語に仕立てて称賛するのです。

たしかに高校野球には、球児の一途な思いがあり、汗と涙の青春の輝きがついて回る。それが高校野球の魅力であるのは事実です。そうした美しい面を否定はいたしませんが、時に当事者たる高校生に重い負担がかかっているようにも見えるのです。

かつて日本人として初めてワールドシリーズで最優秀選手賞を獲得した松井秀喜さんが、甲子園で五打席連続敬遠され、高校野球というひとつのジャンルを超え、社会問題にまで発展した出来事がありました。

松井さんは、当時、超高校級の力をもった強打者として知られ、甲子園でも四番を任されていました。対戦相手は、松井さんを抑えなければ勝つことはできませんから、勝負を避けて敬遠策を選択します。結果、松井さんは五打席連続敬遠、つまり一度も勝負してもらえずチームは敗退しました。当時、世論では松井さんに同情が集まりましたが、相手ピッチャーにも同情の声が上がりました。一所懸命に練習した自分の力を松井さんという強打者に真正面からぶつけたかったはずだ。でもチームの勝利のために対決はできなかった。きっと残念で悔しい思いをしただろうと。

野球は勝敗を争うゲームです。勝つための作戦を考える。これは当然でしょう。でも、ただ勝てばいいというものじゃない。高校野球にはもっと大切なものがある。それは選手の人としての成長です。五打席連続敬遠は、賛否の議論を巻き起こし、勝利至上主義を見直すきっかけにもなったのです。

現在の高校野球では、選手の負担軽減と心情にも配慮したルール変更が導入されております。選手の意思も尊重され、髪型が自由な学校も増えています。一方でチームの連帯意識を身につけるためと全員丸刈り、監督の指示は絶対の高校もあります。さまざまな考え方、指導法があり、これが最善というものはないでしょう。

慶應高校が、「高校野球の常識を覆す」と掲げ、「エンジョイ・ベースボール」を合言葉に鍛錬を重ねてきたのは、その意味で時代の趨勢を反映していたのです。先の見えない時代をより善く生きるには、個人の生きる力を高めることが求められる。だから個人の判断を大切にしたほうがいい。そう確信したからに違いありません。

監督の森林貴彦もりばやしたかひこさんは、「野球を通して生徒たちに何を身につけさせられるかを考えて指導してきた」「生徒たちは野球を好きでやっているのだから、上達させるためには自分で考えさせないといけない」と語ります。

では、どのような力を身につけさせようとしたのでしょうか。一つは人間的に成長するマインドをもたせること。二つ目は考える楽しさを身につけること。この二つの力を、野球を通して獲得することを目指したのが慶應高校の野球部でした。そこに魅力を感じて有望な選手が全国から集まってきました。「坊主頭イコール高校球児と思われがちでそこを変えたいと思った」「新しい野球に魅力を感じた」「高校野球の常識を変えたい」。彼らは、慶應に進んだ理由をそう語っております。

これまでの部活動では、勝利の感動は、古くさいスポ根と、厳しい管理からしか生まれないとの思い込みがあった。それを慶應高校は、「エンジョイ」「楽しさ」をモチベーションにすることで選手のやる気を引き出したのです。

もちろん楽しめば目標を達成できるのか、といえばそうではありません。楽しむことで目標が達成しやすくなるのはたしかですが、楽しめば、必ず目標を達成できるかといえばそんな保証はどこにもない。慶應高校の「エンジョイ・ベースボール」の真髄は、「より高いレベルで野球を楽しもう」ということです。頂点を目指す以上、日々の地道な苦しい練習、ライバルとの競争、試行錯誤がある。そこを乗り越えるところに、より高いレベルの喜びがあるということなのです。

ですから、楽しさは目標達成の手段ではなく、実践の一瞬一瞬、実践する一日一日を充実させることができるものなのです。その意味で楽しむこと自体も目標の一つといえるでしょう。

勝利を目指してやりたいことを我慢し辛抱して歯を食いしばって努力する。でも勝てなければ、つらい努力は何のためだったのかと疑問に感じる人が現れる。

一方、練習それ自体が楽しみならば、勝てなくても後悔はない。次に挑戦すればいいと考えることもできます。努力それ自体を楽しんでいるからです。

つまり、「楽しい実践」とは、結果を重視するけれどそれにも増して過程を大事にするということなのです。「朝の誓」の五か条は、すべて「今日一日」で始まります。第一条は「今日一日 三つの恩を忘れず 喜んで進んではたらきます」です。このように今日一日を、より善く生きようと誓うのです。今日をより善く生きることができれば、一日一日の積み重ねである人生を、善く生きることにつながる。それを支えるのが、本年のテーマである「実践を楽しむ」ということです。

最近、スポーツの世界ではメジャーリーグで活躍する二刀流の大谷翔平選手を筆頭に、型破りな活躍をする若い選手が次々と誕生しております。海外で活躍する選手がたくさんいる。実力を世界に示した10代の有力選手もいる。その誰にも、勝利への情熱はあるものの何が何でも勝つという執着心や悲壮感は感じられません。スポーツそれ自体を楽しんでいるように見えるのです。事実、若い選手はインタビューを受けると、申し合わせたように「試合を楽しみます」と答える。そのためでしょうか、軽やかで清々しく感じるのです。高校野球にはつきものの汗と涙の重さが感じられない。風通しのよい明るさ、フットワークの軽快さがあるのです。

「エンジョイ・ベースボール」の慶應高校もそうでしたが、今活躍する若い選手は、楽しむことを大切にしているのです。好きなことをするから楽しい、練習も苦にならない。だから一層、練習に励む。するとますます上手になって成績が上がる。そこには好きと楽しさの善循環が生まれているのです。

もちろん華やかに見える活躍の裏では、それに専念するため多くのものを犠牲にしているでしょう。好きな道といえども決して甘くはないはずです。それでも好き、楽しいという情熱は、自ら進んで知識を吸収するだけでなく、より高いレベルに自ら飛び込む行動力をも生み出すのです。

こうしてみると、実践を楽しむためには、好きにならなければ楽しめないのか、好きになれない実践は楽しめないのか、という疑問が湧いてまいります。多くの方がそう思われていることでしょう。

例えば、上司から好きでもない仕事を命じられた。指示通りに動き、それなりの成果を上げなければならない。このようなケースはどう考えても楽しめません。

ある若い社員が、得意先のVIPの出迎えを命じられました。いわば案内係です。正面玄関に立って、VIPが来るのをただただ待ちつづける。生産性のない仕事に、「こんな仕事をするために会社に入ったのではない」とふてくされております。

実は、仕事の多くは地味で退屈、時にはつらい作業の連続で成り立っているのです。今年の目標を達成するための実践も、その多くがつらく楽しくないものの積み重ねかもしれません。

それでも私は、そのような実践をも楽しんでいただきたい、実践を好きになっていただきたいと申し上げたいのです。

では、どうすればいいのか。

先師は、折に触れ「随処に主となれ」と私たちの実践を鼓舞されました。「随処に主となれば、立処皆真りっしょみなしんなり」。禅の言葉です。「どんなところにいようと、何をしようと、自分がその主人公となって行動すれば、その生き方は真実の生き方になる」という意味です。先の上役から命じられた仕事は、いわば請負仕事です。誰もができて誰がやっても変化はない。そう思ってしまえば一層つまらなくなる、やる気も起きない。好きになれないし、楽しくもないのは当然です。そこを好きになり楽しくするために、「随処に主」となるのです。

案内係を任されたのであれば、こう考える。「この若さでVIPのアテンドを任されたのは自分にしか務まらないと認められたからだ。せっかくの機会なのだから、VIPの一挙手一投足から一つでも多くを吸収して、自らの血肉としよう」。このような意識転換により、請負仕事に光の側面を見出すのです。これが、主人公になるということです。意識が変わり仕事への積極性が生まれると、さまざまなアイデアが湧き出てくる。アイデアの実現に向けて知恵を絞り工夫に工夫を重ねる。自分自身に対して、また自分の周りで起こることに対して、創造しては、問いかけ、崩壊させ、また新たにつくっていくことを繰り返す。それが自分を深めることになり、新しい自分の発見につながるのです。こうして仕事が楽しくなり、いつの間にか仕事が好きになっている。これが実践を楽しむ境地であり、実践の極意なのです。

 

さあ、新しい年の始まりです。この年を、楽しい実践で「常識」への挑戦の年といたしましょう。「当たり前」を疑ってみるのです。時代に沿わない「伝統」という名の悪習や、アップデートされない「常識」という岩盤は簡単には打ち壊せません。それでも、「当たり前」にあえて投じた実践の一石が波紋として広がることを期待して、軽やかで清々しく、実践それ自体を楽しもうではありませんか。好きな実践だから楽しむのではありません。退屈でつまらない実践であっても、あえて楽しむことが大切なのです。

実践一年、実践を大いに楽しむ年といたしましょう。かく申し上げ、年頭のご挨拶とさせていただきます。

令和6年 元旦
会長 上廣 哲治

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